【連載】「うたってなんだっけ」

関取 花

第42回『(特別編)それでもなぜ歌うのか』

2025.04.1

これまで、私はこの連載で主に「歌を歌うことでよくなっていったこと」「新しく得られた気づき」といったことを中心に書いてきました。それは一人でも多くの人に歌うことの楽しさを知って欲しいなと思っていたからで、今でもその気持ちにもちろん変わりはないのですが、一方で「歌でご飯を食べていくと決めたことで失ってしまったもの」についても残しておくべきかなとふと思い、今回はそんな内容でお届けしようと思います。「好きなことで生きていく」ってとても美しいけれど、それなりの覚悟が必要なわけですから、そりゃあ楽しいだけじゃやっていけません。基本的にはそんなに甘くない、この世の中は。

以下は、最近の私のとある日の日記です。どこにも出していない、自分のためだけに書いている備忘録のようなものです。でも、だからこそ一番リアルかなと思ったのでそのまま載せてみることにします。


電車に乗っていると、人の咳や鼻水、ひいては話している人の鼻声にまで敏感になってしまっている自分がいる。花粉の季節でもあるのでそんな人はごまんといるわけだが、職業柄「もしも何かが自分にうつってしまったら」と考えるとめちゃくちゃ怖い。決まっているライブを飛ばすのが一番メンタルにくる。

電車で隣に座った人が重そうな咳をしはじめたら、どんなに疲れていても途中で立ってその場所を離れる。申し訳ない気持ちでいっぱいだ。風邪なんて誰でもひくし、そうやって免疫はついて行ったりするのだろうし、その人だって誰かからもらってしまっただけの可能性も高い。でも、ビクビクしながら隣に座っているその時間でまさに私は「病は気から」を発症してしまいそうになるので、自分のためにも、申し訳なさから少しでも逃げるためにも、その場を離れることにしている。

正直、年々潔癖症になっている。よく知らない人がいる場所に行くのがいやだし、よく知らない人と話すのが苦手になっている。実家に帰るのにも友達に会うのにも、至近距離で会う相手の体調が気になって仕方がない。ありがたいことに私は本当にまわりに恵まれていて、事前に「誠に申し訳ないのだけど、気にしてしまいがちだからもし少しでも体調が悪めだったら連絡もらえるとありがたい」と伝えて、何かあればみんな教えてくれる。

飲みに行くのにも隣の席と離れているところがいいと思ってしまうし、なるべくなら個室がいい。すだれの仕切りの向こう側で重そうな咳が聞こえたら早く帰りたくなってしまう。だから集まるなら家がいい。出かけるのも人が少ないところがいい。山とか。

もちろん普段から自分自身の体調管理にも気をつけている。とはいえ完璧なんてありえないわけで、気をつけているとはいえやりすぎたら生活なんてできないわけで、私の場合の潔癖症的なのなんてあくまでも自分基準だしで、矛盾しかないのもわかっている。

そこに頭を回すのだけでもめちゃくちゃ疲れるし、そのせいで大事な機会、たとえば大切な人と話す時間、両親に会う時間、そういういろんなものを失っているなあと思う。

ちなみに、私のこの潔癖症的なのはコロナ禍に始まったことではなく、「ライブがあるのに体調を崩した」という事実が重なるたびに加速度を増して行っての現在、という感じである。(10代の時から電車とか人が多いところとかでは基本的に年がら年中マスクをしている)

15年間音楽をやっていたらそりゃ風邪をひいた日にライブ、とかそんなことはどんなに防いでみてもあるわけで、でもその度に気にする加速度は上がって行って、止まるところを知らない感じだ。長年やれば慣れてくるのかと思いきやその真逆、高みを目指すほどに遠のいて行く。おかげさまで多分人より風邪や体調不良になることはかなり少ないとは思うのだが、だからこそ一発が来た時の落ち込み方がやばい。慣れて多少分散させとけよ、と自分でも思う。

歌を歌ってさえいなければ、こんなに風邪のひとつくらいで気にすることもなかったのになあ、と時々思う。少しくらい鼻声だって、ほんのり喉が痛くたって、ちょっと声が枯れていたって、べつに他の仕事ならいつも通りこなせたのだろうし、みんなそうやって頑張っているわけで、やっぱり気にしすぎだよなあとも思う。でも仮に違う演奏パートやまったく違う仕事をしていたとしても、それはそれで気にすべきことは他に出てくるのだろうし、ただの性格の問題なのかもしれない。自分で言うのもあれだが、私は真面目だ。でも声というのはやっぱりその中でも、あまりに繊細すぎる機能であるとは思う。それに私は、この自分の声に誇りを持っている。これは私の宝だ。だからこその長年の悩みだ。

この悩みに終わりはくるのだろうか。たぶん音楽をやめるか、相当人生観の変わる出来事を経験しない限り誰に何を言われても変われないのではと思っている。

私にとってはライブという大切な場所になるべくベストな自分で立ちたい、お金を払って見に来てくれる方々に少しでも満足してもらいたいという一心なわけだが、それによって自分自身の人生の大切な何かを失っているのだとしたら、あったかもしれない経験からもしかしたら書けたかもしれない曲があったのだとしたら、果たしてそれは正しいのか、否か。

でもいい声でライブをした方が気持ちいいに決まっているわけで、何かの道で行くと決めたのなら何かを犠牲にしなきゃいけなくなるのはどの仕事だって同じわけで……。とか考え出すとキリがない。

これは多分、誰かに何かを言われて納得できるものでもないと思っている。私が自分自身で大好きな音楽とより仲良くやっていく方法を、一生をかけて見つけたい。

コンディションばっちりでライブができれば自分の心は満たされる。でも、その状態でいるための過程で、確実に何かは失っている。(今の私だと)

正しさってなんだろうか。豊かさってなんなんだろうか。この葛藤さえもいつか曲になるのか。


いかがでしたでしょうか。これは私の果てしなく長い「ぼやき」です(笑)。「そんなに考えなくてもいいのに」とお思いになる方も多いかもしれません。そこに明確な答えはなく、ミュージシャンによって考え方って本当に違うし、実際年々私も変化しています。(ライブが少ない時期などはここまで考え過ぎることは正直ないですし)でも、私の場合はこうだよ、という話は私にしかできないことだと思ったので、残してみました。だからどうしろ、こうしろ、という話ではまったくありません。

でもなんだか今読み返してみて、ここまで夢中になれるものに出会えた自分はとりあえず幸せ者だな、なんて思った今日この頃です。

本コラムの執筆者

関取 花

関取 花(せきとり・はな)
1990年生まれ 神奈川県横浜市出身 愛嬌たっぷりの人柄と伸びやかな声、そして心に響く楽曲を武器に歌い続けるソロアーティスト。2019年ユニバーサルシグマよりメジャーデビュー。2025年、デビュー15周年という節目を迎え自主レーベル「NOKOTTA RECORDS」(ノコッタレコーズ)を設立。2025年5月7日に最新アルバム『わるくない』をリリース予定。

本コラムの記事一覧

その他のコラム

最新情報

ヴォーカルや機材、ライブに関する最新情報をほぼ毎日更新!