取材・文:鈴木瑞穂(Vocal Magazine Web)
ライブ写真:KEIKO TANABE
“自分プロデュース”を始めたら、それがどんどん楽しくなっていった
──ここからは鈴華さんの歌唱表現を形づくったルーツの部分を聞かせてください。幼い頃から詩吟や剣詩舞、ピアノなど“表現すること”が身近にあったと思いますが、表現することに関してはどんな感覚を持っていますか?
鈴華 ピアニストの母が実家でピアノ教室をやっていたので、物心つく前からピアノはやっていて、初ステージがたぶん2歳半とかなんですよね。母からは “あなたには人前に立って自由に表現する喜びや楽しみを知ってほしいから、ちっちゃい頃から舞台に立たせたんだ”ということを聞いていて。私もステージに立ったときに普段の自分じゃない自分になれるのがすごく楽しかったんです。もちろんやり切れるときとそうじゃないときと両方あるんですけど、それが表現者の醍醐味というか。“舞台”という常に同じことはできない場所で、その瞬間の良さを模索することが好きになったんですよね。
──ピアニストなど表現者としての選択肢がある中で、歌手になることを決めたきっかけは何だったのですか?
鈴華 私が最初に歌手になりたいと思ったのは小学校高学年ぐらいかな。憧れのアーティストやアイドルグループがいっぱいいたんです。中学生になったある日、カラオケで友達の前で歌ったら“すごい”って言われたんですよ。それが嬉しくて、オリコンチャートでベストテンに入っている曲はすべて歌えるようにしました。友達にも喜んでもらえるし、歌うのがすごい好きになっていって。
一方でピアノは、クラシックの世界は厳しいし、嫌いな時期もあったんです。ただ、自分に負けたくない悔しさで音大は絶対行ってやるというプライドもあって(笑)。でも、ピアニストだけじゃ自分を表現しきれないフラストレーションがあって、“作曲家コースじゃダメ?”って親にも相談していました。でも、“これだけピアノやってきたんだから逃げないほうがいいんじゃない?”って言われてしまって、“くそー、じゃあ音大にはピアノ科で行ってからそのあと好きなことやろう!”って決めたんです。そしたら親もすごく賛成してくれて。
ちょうどそのぐらいの時期に父親が亡くなって、そのときの衝撃や自分のつらさを曲で表現するようになったんです。そしたら、支えになったと言ってくれる人たちがいて。それを見たときに、やっぱり私は曲を作って歌うことがやりたいんだなって、だんだんと自覚していった感じでしたね。
──歌い続ける中で、壁にぶつかったタイミングはありましたか?
鈴華 意外とヴォーカルは(壁にぶつかったことが)ないからこそ幸せなのかもしれない。ピアノはめっちゃあったんですけどね。子供の頃は1日8時間とか部屋に閉じこもって弾いていて、つらすぎて。でも歌は、こうじゃなきゃいけないという縛りがないし、自由に歌っていい感覚があって。もし壁に当たったとすれば、このままただ歌っていても誰にも聴いてもらえないから、どうすればいいかなと模索していたことだったかもしれないです。
──それは詩吟の歌唱法を取り入れることで乗り越えていったのですか?
鈴華 その頃はまだそういうことはやっていなくて、ユニットやバンド、ソロといろいろ形態を変えながら歌を歌っていたんです。ちょうどそのころ、ニコニコ動画で生配信を始めて。曲を即興で弾いたり、歌ったり、ときどき詩吟も披露していました。配信をするようになったらリアルライブに5人ぐらい来てくれて、それが本当に嬉しくて。もっと広げるために頑張ろうと、自分プロデュースを始めたんです。そしたらそれがどんどん楽しくなっていって。2年後の、固定客が100人になったぐらいの頃かな。ふと、“ピアノを弾いたり、ときどき詩吟を見せているけど、ひとつに合わせたほうが良くない?”と思って。できることを別々に表現しなきゃと思っていた自分が間違ってた。全部一緒にしよう。と考え始めたのが和楽器バンドに繋がっていったんですよね。
──そこから、詩吟の技術を取り入れた“唯一無二のヴォーカルスタイル”が完成するまでには、どんな道のりがあったのですか?
鈴華 きっかけは、詩吟の全国大会で優勝したことと、ニコニコ動画のミスコンで優勝したことが1週間で立て続けに起きたときがあって。そのとき、ニコニコ動画でウケるものはボカロだな、歌い方で唯一無二になるのは詩吟だな、じゃあボーカロイドをちょっと詩吟調に歌ってみたらどうなるのかなってひらめいて、家でやってみたんです。こんなに速いテンポで詩吟を入れられる人はいないんじゃないか? この歌い方、面白いかもなって。
これをひとりでやっていくのもいいけど、人数を増やして、「演奏してみた」とかも全部凝縮したら、もっと唯一無二になるんじゃないかなって思ったんです。ただ、お金がかかるという問題にぶち当たり……。なので事務所やレーベルの力を借りるところまでプランニングしなきゃなと考えて、ソロ活動とは別に、バンドのプロジェクトとしてやってみようということを思いつきました。そして、それぞれのメンバーが組んでいるバンドを頻繁に見に行って、そこから着想を得たプランをもとに、 “一緒にやらない?”とスカウトして。そうやってゼロからどんどん形にしていったんです。