【インタビュー】T-BOLAN 森友嵐士が語る、約28年ぶりオリジナルAL。歌声を失った10年からの復活と真摯な歌への向き合い方

2022.03.15

取材・文:舟見 佳子

“聴いてもらいたい”と思えた。これが僕の“歌えるようになった”ってこと

──森友さんは、90年代後半に「心因性発声障害」を発症して、約10年間も歌えなかったそうですが、どういう症状だったのですか?

森友 メンタルの何かが関与して、声帯の機能をうまく働かせられないようなことが起きてたんです。歌う・話すっていうときに、実際に声帯の中で起こってることは、ちゃんと機能してない。そのバランスが崩れてる。だから病名は心因性発声障害。確かに機能してないんです。でも、「なぜですか? 先生」って訊いてもわからない。検査しても声帯には問題ないんです。

──日常生活でしゃべることはできていたんですよね?

森友 いや、しゃべる声もダメだったんです。普通の会話の中ではあまりトラブルは起こらないんだけども、例えばラジオの収録とか、“テキストを読む”ということになると、同じ症状が出てたんです。それに自分で気づいた瞬間から症状がひどくなっていって、最後は“あ”っていう1音の発音もできなくなる。もう、うずくまっちゃうわけですよ。“あ”ってどうやって出すんだったっけ?みたいな。ラジオのレギュラーを持っていたんですけども、症状が出始めて収録がうまくできなくなることが多くなってきて、番組を終わりにしたんです。

──“もう歌をやめよう”とは思わなかったんですか。

森友 ドクターには「10年後、歌えないままかもしれないよ」って言われたんです。この病気はそれぐらい大変なことだ、と。「過去に歌を仕事に持ってる人で、あなたのような症状の人を見たことがない、ここまでひどいのは聞いたことがない」って言われたので。残酷な告知ですよね。「10年後、もしかしたら歌えるようになるかもしれないよ」って言ってくれればいいのに。それでも僕は“そんな馬鹿なことがあるか!”と思って挑戦してたんですけど、本当に10年経っちゃった。10年経ってもダメか……って。

──それを克服して、再び“歌える”と確信したのは何かきっかけがあったんですか?

森友 歌えるという自分の中の線引きですか? 人に聴いてもらいたいと思った歌が録れた瞬間ですね。リハビリ中、ほぼ毎日スタジオで自分(T-BOLAN)の歌を録音して確認してたんです。10年間ほぼほぼ進歩はなかったですけど、その作業はずっとやってました。

──“またあんなふうに歌えるようになろう”って?

森友 そう。お手本があったんです。過去の自分がレコーディングした歌が。過去の歌をずっと目指してやっていたけど、いつもそれに負けてる感じだったんですよ。

──過去の自分に負けてるって……、それはつらい。

森友 10年経った頃に二人目の子供を授かって。その男の子が生まれたときに、“過去の自分に負けてる親父って……そんな姿でいいの?”みたいなことを考え始めたんです。でも、同時に“ちょっと待てよ?”と。“俺は自分の人生で常に前に歩いていってるわけで、歌えなくなったという事実はあるけれども、人生として負けてるわけじゃないよな。問題なのは振り返ってる俺だ!”と思ったわけですよ。

それでT-BOLANを完全に封印しました。T-BOLANがあると比べちゃうし、どうしても振り返るから。曲も聴かないし、T-BOLANのTの字も見ない。そこに気づくまで10年かかりました。そして、それまで歌ったことない歌に挑戦し始めたんです。

──それまでのスタイルと変えた?

森友 完全に変えました。一回まっさらにして、“自分の歌をゼロから作ろう”と。その1曲目が「上を向いて歩こう」(※坂本九のカバー。2011年『オレのバラッド』に収録)です。

──「上を向いて歩こう」という曲には、どんなふうに取り組んだんですか?

森友 ひらがなで歌詞カードを作って、声が出なかったところに赤丸チェックをしていたんです。僕の場合は声帯が閉まらないっていうケースで、息が漏れて音にならない。その症状が部分的に出るんですけど、いろんな方々から意見やトレーニング方法も聞いてるし、それをやる中で声が出るようになることがあるわけですよね。そのチェック項目の赤丸が、“1個消えました、歌えた”って進歩でしょう。そうすると、今日はよくやったと(自分に拍手)。T-BOLANを課題曲にしていたときは、“今日もできなかった”しかなかったんです。でも、できたことが1個増えただけで1日の終わりが全然違う。それが自分の気持ちを切り替える、すごく大きな考え方のチェンジになりました。

そうやって1年くらい経ったときに“「上を向いて歩こう」を誰かに聴いてもらいたい”と思った。“このテイクを聴いてもらいたい”と思えたんです。これが僕の“歌えるようになった”ってことです。

──すごいエピソードですね。鳥肌立ちました。

森友 僕は、自分の歌を“聴いてもらいたい”と思うんですよね。最初はただ歌いたかっただけ。僕のステージって自宅のお風呂場だったんですよ。お風呂場で毎日1時間ぐらい歌ってた子供が中学生になり高校生になっていく中で、高校の文化祭で初めてギターを持って人前で歌うんです。古い講堂があって、そこで初めて何曲か人前で歌ったんですけど、その中に、学年のマドンナって呼ばれてた可愛い女の子がいた。その子は別に僕を見に来たわけじゃなくて、たまたまそのライブ会場にいたんじゃないですか? でも、彼女がいるのは僕もわかった。別に恋をしてるとか、そんなんじゃないですよ(笑)。ただ、その子が僕の歌を聴いて涙を流したんですよね。これが、僕の“歌うことが好き”から“聴いてもらいたい”っていう衝動に変わる瞬間でした。

──そこが原点だったんですね。

森友 聴いてもらいたいと思うことって自分にとってすごく大きくて。それこそリハビリ中で歌えないときの歌なんて誰にも聴かせたくないし、聴かれたくない。聴いてもらいたいと思えた「上を向いて歩こう」だって、まだボロボロですよ。だけど、最初のまったく歌えない頃の症状に比べたら、一応歌にはなってきてる。これを“聴いてもらいたいな”と思い始めたのが復活の始まりでしたね。

振り返ればね、僕には(治す)方法論を確立できなかったし、(リハビリ中に)“もっといろんな人の意見を聞く耳が持てていたら、方法論を変える調整ができたかも……”とは思います。だけど、“考え方を変えることで方法が変わり、方法が変わると結果が変わるよ”っていうことは言える。同じループの中で進まないなら、考え方を変えたり方法を変えてみるっていうのはひとつの手かもしれない。

──森友さんの場合も、一回ゼロに戻ることでリセットされたわけですしね。

森友 リハビリ中にいろんな方々にサポートしてもらったんだけども、その中で一番すごいものをくれた人がいて、その人からもらった言葉が「歌は心と身体の総合芸術」。“身体のバランスが壊れててもダメだし、心のバランスが壊れててもダメ。両方元気にしなきゃダメ。それが歌うスタートにおける、最低限の条件よ”って。

その当時、僕はボロボロだったわけですよ。真っ直ぐも歩けなかったし、心の状態も顔に表われていただろうし。それでも歌を取り戻したいから歌ばっかりに執着する。歌うことに向かおうとするんですよ。そのときに「森友さん、何があったかわからないけれども、歌うことを一回置きなさい。いま声出したって歌になんかなりませんよ」と。ずっとカウンセリングを受けてたんだけど、結局その先生に「これをしなさい」って言われたのは、魚釣りだったんですよ。それはなぜか。魚釣りの話をしてるときが一番楽しそうだからって。

──まずは心の健康が大事と。

森友 今、ヴォーカリストで声のトラブルを抱える人が多いでしょ。突然歌えなくなったりして。仕事になると、歌いたいときじゃなくても歌わなきゃいけなかったり、歌が喜びじゃないことに変わることもいっぱいある。だから、調子が悪くなったら自分の心が喜ぶことをやったほうがいい。“歌に向かうことで歌は良くならない。良い歌を歌おうと思って、良い歌は歌えない”。これは自分が声を失って教わったことだし、90年代の自分がやってたことを振り返っても、確かにそうだったなって思う。

喉のケアも大事だけども、心のケアがとても大事。ライブ前はどういうふうにモチベーションを上げるか、楽屋に入る瞬間、会場に入るときからみんなの空気、エネルギーを感じる、これがとっても大事。どんなに体調が良くても、ギスギスした関係の中で良い歌なんか歌えない。「ウワーォ! 行こうぜ!」みたいな気持ちにみんながなっていって、「5分前です、お願いします」、「オッケー、行こうぜ!」って、幕がダーン!「行くぜ~!」ってなったときが一番いい。喉や声帯の調子が多少悪くても、補ってくれるぐらい。もちろん、両方調子が良いのが一番いいんだけどね。

で、ライブが始まると、オーディエンスに影響される。僕らも人間なので、毎回同じものを渡してるわけじゃなくて、みんなが良い顔をくれたり大きな拍手をくれたら、こっちもまだ上がる。自分で出せる力なんて高が知れていて、「今日良いライブだったな」っていうのは、ほぼほぼみんなからもらってる。みんなのワクワクがライブの音をワクワクさせる。それがまた僕をワクワクさせる。そういうふうに思っています。

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