【インタビュー】FUNKY MONKEY BΛBY’S(ファンキー加藤、モン吉)再始動後初のフルアルバムで響いた“最強ユニゾン”の証明

取材・文:藤井 徹(Vocal Magazine Web)
ライブ写真撮影:AYAMI KAWASHIMA

2021年の再始動以来、コンスタントに楽曲を発表してきたFUNKY MONKEY BΛBY’Sが、いよいよオリジナル・フルアルバム『ファンキーモンキーベイビーズZ』を3月29日(水)にドロップした。
再始動後にリリースした「エール」、「ROUTE 16」、「YOU」を始めとした11曲は、聴く者の背中を力強く押してくれる“ファンモン節”はもちろん、2013年の解散後にファンキー加藤、モン吉がソロアーティストとして活動してきた経験が深みとなって刻まれている。

Vocal Magazine Web初登場となるふたりに、歌を始めた若き日の話、ソロ活動中に取り組んだ歌への意識、そしてニューアルバムについてなど、じっくりと話を聞くことができた。

※インタビューの最後に素敵なプレゼントがあります!

ラップはペンと紙があればよかったんで、始めたら楽しいなって ── モン吉

──Vocal Magazine Web初登場ということで、シンガーとしてのルーツをそれぞれ聞かせてください。

ファンキー加藤 僕の“歌って嬉しい”という原体験は、親戚一同が集まる正月の親父の実家ですかね。小学5〜6年生ぐらいのときに長渕剛さんを好きになって。親父がもともとグループサウンズのコピーをするアマチュアバンドをやってたので、僕も家にあったギターで長渕さんの曲を弾いて歌ってたんです。それで正月の集まりのとき、親戚のおっちゃんたちがみんな飲んでいて「おい俊介、やってみろ」と。歌ったら手を叩いて喜んでくれてお年玉を多めにもらったっていう……人生初のギャラをいただいたんです(笑)。いまだに自分の中で思い出すシーンですね。

──その後、親族以外の前で歌ったのは?

ファンキー加藤 中学生でBOØWYを好きになり、2年のときに同級生とコピーバンドを結成して、卒業のタイミングで近くの公民館のスペースを借りてライブをやりましたね。高校では文化祭に出たり、ちょっとずつライブハウスで歌ったりしていて、基本的にずっとヴォーカルでした。目立ちたがりっていうのもあるし、単純に昔から声がデカかったんで、マイクの通りがいいってライブハウスのPAさんに言われて調子に乗ったりして(笑)。うまいヘタは置いておいて、歌を歌うということ自体は昔から好きでしたね。

──モン吉さんが歌を始めたのは?

モン吉 中学のときに男友達と行ったカラオケが、人前で歌ったということでは初めてだったかなあ。最初めちゃめちゃ恥ずかしくて、慣れるまでヘンな汗をかきながら歌ってた記憶がありますね(笑)。たぶんユニコーンとかBOØWYとか、尾崎豊さんとか……。本当にその頃に流行ったポップスという感じです。高1のときにはもうヒップホップのブームがあったのでラップやDJを始めてました。

ファンキー加藤 DJが先なの? ラップが先なの?

モン吉 DJかな。高校生なんでお金がなくてターンテーブルは1台しかないし、ミキサーも1台で、繋ぐこともなく、レコードをひたすらこすってるみたいな。DJやっててお金がないんでどうしようもなくなったときに、ラップはペンと紙があればよかったんで、始めたら楽しいなって。

──加藤さん、ラップは?

ファンキー加藤 高校1〜2年まではバンドをやってたんですけど、2〜3年ぐらいのときに、いわゆる“日本語ラップブーム”っていうのがアンダーグラウンドなところでグワーッと熱が上がってて。僕も一気にのめり込んで高3ではバンドをやめてラップをやってましたね。高校の文化祭も1年はバンドでザ・ブルーハーツのコピーとかをやり、2年はアコースティックギター持って長渕さんのコピーをやって、3年はラップという、よくわからない、まったくまとまりのない3年間でした(笑)。でも、18歳ぐらいで出会ってからはずっと日本語ラップですね。いわゆるクラブに行って歌ってました。

──そのときはバックトラックを誰かに作ってもらって?

ファンキー加藤 いえ、有りモノのレコードのインストを使って歌うのが当時の主流だったかな。オリジナルのオケをMPCとかで叩いて作るっていうのは、そこまで周りにまだいなくて。“MPCを誰かが買った”ってなったら、すぐ遊びに行きましたね。ヒップホップっていうかラップって敷居は低いけど、いざそれでライブするとなると、やっぱなんだかんだ機材とかのお金がかかっちゃったりするので。基本的にはレコードをいっぱい持ってるDJの家に行って、片っ端から聴いて“このインストいいなぁ”って借りて歌う、みたいな。

──おふたりはいつ頃に出会ってるんですか?

ファンキー加藤 20歳ぐらいのときですね。中学も高校も別々だったんで。八王子の中でけっこうヒップホップ熱が高かったんだよね。

モン吉 うん。もうみんなラッパーかダンサーかDJか。それかモテたきゃサーファーか、みたいな。それしか手がなかったというか。

ファンキー加藤 『Fine』(サーファー雑誌)がアツかった時代ですよね。

──ハコはどこでやってたんですか?

ファンキー加藤 それこそライブハウス……八王子だとRIPSだったり、その上に春木屋ってクラブがあって……。

──春木屋……荻窪のラーメン店と同じ名前ですね。

ファンキー加藤 そうそう。たぶんそこから取ったと思うんですけど。あとはCLUB ZONEもあったけど、今はなくなってますね。あと、一平の隣の鹿鳴館の下!

モン吉 えーっとね……忘れた。あったなあ、なんか。

ファンキー加藤 そこはよく行ったよね。聖蹟桜ヶ丘のマウス、町田にもVOXがあったし、立川……あと福生ですね。福生はベース(基地)沿いにいっぱいクラブがあって、特にエディーズっていうところが有名で。八王子だけじゃなくて西東京界隈のクラブはよく行ったなあ。でまあ、八王子でラップやってると、だいたい知り合うんですよね。そんなに大きい町じゃないんで。

モン吉 ファンちゃんはファンちゃんでイベントやってたし、僕は僕でイベントやってたから、お互いに出てもらったり出たりとお互い行き来して。

ファンキー加藤 そこで出会って仲良くなった感じですかね。

モン吉 うん。でも最初はたぶんあれだよ、BEWEAR(ビーウェアー)。

ファンキー加藤 洋服屋さん! そうだ。

モン吉 そのときはファンちゃんが歌ってると知らずに……。

ファンキー加藤 八王子にいわゆるヒップホップとかB-BOYが通う洋服屋さんがあって、僕はそこの店員をやってたんですけど、そこでモンちゃんがお客さんで来て……。

モン吉 いつもはお店に“地蔵クン”っていうあだ名の友達がいたんですけど、そのときは、“なんかすごいガタイのいいお兄ちゃんがいるなあ”って(笑)。

ファンキー加藤 僕は僕で、“なんか緑色の髪の毛の人いるなあ”って(笑)。で、“あっ、あの人たしか八王子のラッパーだな”みたいな。そういう感じでちょっとずつ知り合っていきました。

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