取材・文:藤井 徹(Vocal Magazine Web)
高橋 優がデビュー15周年を迎えてベストアルバム『自由悟然』(読み:じゅうごねん)を12月10日(水)にリリースした。
「優勝盤」、「優遇盤」、「優男盤」の3枚組に45曲が収録されており、稀代のリアルタイムシンガーソングライターが歩んだ道のりをたっぷりと味わうことができる。
『Vocal Magazine Web』では、その活動からヴォーカリストとして、ソングライターとして、フェス主宰としての高橋 優へフォーカスして聞いてみることとした。
さらに、収録された新曲から「未刊の行進」と「黎明」について深堀りしていく。
2013年頃に迎えた歌い方のターニングポイント
──今回は『Vocal Magazine Web』の原点に立ち返り、高橋さんの歌唱変遷から聞きたいなと思ってます。このベスト盤にはデビュー時から現在までの楽曲が網羅されていますし、ご自身の声を含めた歌い方を振り返ってターニングポイントがあれば教えてください。
高橋 ヴォーカル的に言うと、僕は2013年に声帯を一回壊してるんです。『BREAK MY SILENCE』ってアルバムを出したあたりですけど、その辺が一番ターニングポイントになったと思います。このベストアルバムの中で収録している曲では、「CANDY」とかだったかな。
──「CANDY」は苦しかった頃ですか? それとも乗り越えたあと?
高橋 そのときが一番つらかったというか、それを引っ提げたツアーが一番つらかったし、喉的には無理してた。メンタル的に落ちてるとかは別になかったけど、物理的には声帯に結節ができて、その結節から出血してるぐらいの状態だったんですよ。このまま行くと歌えなくなるかもしれないぐらい良くない状態だってわかりながら、ツアーをどうにか回ったんです。そのツアーファイナルが初めての日本武道館だったんで、その辺だと思います、一番ターニングポイントになったのは。
──それまでの歌い方と変えざるを得なかったんですか?
高橋 変えざるを得なかったと思います。ただ、変えるべくして変えたって感じですかね。要は元々が路上ライブの人間だからっていうのがあると思うんですけど、とにかくマイクがあろうがなかろうが叫んで歌うぜ!みたいな感じだったんですよ。それってやっぱり危険で。どんな道でも全力疾走!じゃないけど、肉離れ起こしちゃうじゃないですか、オーバーワークしたら。見境なしにどこでもいつでも全力で叫ぶだけ、感情垂れ流しみたいな歌い方が自分の持ち味だとも思ってたんですけど、それがダメだということが2013年にわかった。それだと歌えなくなるってことがわかって、2014年から歌い方を自分で考えて。それでもボイトレとかは行かなかったんですけど。今回の優勝盤(1枚目)で言うと「陽はまた昇る」のあたりですね。これがたぶん『BREAK MY SILENCE』とか『僕らの平成ロックンロール②」というアルバムを出したあたりなんですけど、この辺がヴォーカル的にはターニングポイントになった時期だと思います。
──具体的にはどういう点を改善していったんですか?
高橋 マイクパフォーマンスですね、やっぱり。いろんなヴォーカルの方がやられていると思うんですが、デスボイスとかシャウトって、まんま大声でシャウトしている人って実は少なくて、シャウトって実は技術なんですよ。声帯のすぐ上にある仮声帯を震わせて、“あ゙〜〜〜”っていう音をよく出すとデスボイスっぽくなるとかいう技術なんですよね。だから、あんなにシャウトしているようでも声が枯れないじゃないですか、ロックシンガーの方々って。そういうノウハウみたいなものを声帯を診てもらっている先生から教えてもらったり、ボイトレをやっている知人から何となく聞いたりしてて。強く歌うときはマイクを近づけて歌って、優しく歌いたいときはあえてちょっと離して歌うとか。要は、ただ喉だけで頑張るんじゃなくて、マイクパフォーマンスと自分の声の出し方の工夫をいろいろ織り交ぜてやって変えていった感じですかね。
──声帯結節になったことで、しばらくは安静も必要だったでしょうし、歌えなかった時期もあると思うんですけど、声自体は変わらなかったという感覚ですか?
高橋 そうですね。僕の場合は手術してないので、ポリープみたいな感じのやつはずっとあって。ただ必ずしもそれを全部取ればいいと思うものでもなくて、ポリープがあるからこそ、ちょっとハスキーな声が出たりとかして、“そういう体型”みたいな風に捉えて歌うことができるんですね。もちろん使い過ぎるとそれがまた大きくなってきたり、周りが炎症したりすると良くないんですけど。あとは付き合い方だなっていうのを大きく学んだのが、2013年から2014年のその時期って感じですかね。
──そのあとも含めると、小さいものだったら何かありました?
高橋 2024年に、また声帯炎で一回ラジオ番組をひとつお休みさせてもらって、今年も声帯炎になって、ツアー1本だけ飛ばしちゃったんですね。『HAPPY』ってアルバムのツアーだったんですけど。その都度、やはり気づきはありますね。そういうことがあるたびに。
──ずっと付き合っていくしかないんだなって感じですか?
高橋 そうですね。付き合っていくしかないということを、すごくポジティブに捉えています。なんか「こんな身体で生まれてしまった」みたいな嘆きは一切なくて、逆に「あ、なるほど。じゃあこうすればいいんだ」っていうのが次に見つかっていくっていう感じです。
──ありがとうございます。声ではなくて、いわゆる技術的な方向では何かありますか?
高橋 技術はヘタクソのまんまです。
──いやいや。
高橋 なんにも変わってないですよ。
──ボイトレに通わないというのも、逆に言うとポリシーでもある?
高橋 いや、そんなことはないですよ。いつかそういうのも必要となれば行くのかなと思うんですけど。なんかすがるように門を叩くみたいな、「どうすればいいんですか?」って思っていないんですよね、僕はたぶん。
──技術ではないかもしれませんが、キーが上がったり下がったりはしましたか?
高橋 ちょっと上がったのかもしれないですけど、あんまりそこを考えてないですね。音程はもちろんなんですけど、どっちかって言うと僕の場合、やっぱり強弱とかダイナミクスみたいなほうが、もしかしたら以前よりコントロールする楽しみが増えたかもしれないですね。
──ライブやツアーを乗り切るスタミナはどうですか?
高橋 一応身体を鍛えてるんで、スタミナはあるんじゃないですかね。声や喉のスタミナは調整して歌っていれば大丈夫です。それこそまた手放しで叫んじゃったり、考えないで感情のほうのライブになっちゃうと枯れちゃうんですね、本当に叫ぶと。だから叫ぶ=声を出すっていう認識でやれてるときは安定してるから。スタミナが増えてるかはわからないんですけど、その技術をしっかり意識して歌っていればそうそう枯れないと思います。
──それはやはり長いツアーをやりながら、だんだん学んできたことなんですかね。
高橋 そうだと思います。イヤモニを使いながら、あえて転がし(のモニター)で聴いたりすることもすごく大事だし。
──改めてオールタイムで並べてみて、当時の曲で「今ならこう歌うかもな」とか、「我ながらこのときの歌唱は良くできていて、若いときにはできたけど、今これは逆にできない表現だな」とか感じた曲はありますか?
高橋 繰り返しになっちゃうかもしれないけど、やっぱり当時作った曲、2013年より以前に作った曲とかは、本当に感情のままに叫ぶっていうことが自分の中で良いことだと思ってたんです。でもやっぱり「ずっと歌っていたい」と意識し始めたときに、そういうマイクパフォーマンスだ、イヤモニだ、会場によっての響きの違いだとかを意識して歌うようになってからは、逆に楽しさが増えて。例えば「福笑い」なのに真顔で笑わないで歌ってみようとか、「明日はきっといい日になる」という曲なんだけど、気持ちはちょっと過去のことを思って歌ってみようかなとか。未来のことばっかり考えてなきゃいけない曲ってなるのが嫌だって、どういう気持ちと、どういう声のセットでやるのが一番良いのかなって考えたり。
あとは、気持ちが入りそうな曲ほど逆に「今日何食おうかな」って思って歌ったりとか。そのマインドセットみたいな楽しみ? それは結果的に適当にやるんじゃなくて、お客さんにどうやれば一番よく届くかなっていう工夫なんですけど。その工夫で今歌うバリエーションは、以前よりは増えているような気がします。「こどものうた」も、昔はもう歌詞のままに、《殺せよどうせなら》という表情で歌ってた気がするんだけど、それをもっとポップに笑顔で歌ったらどうなるだろう?とか。そういうのをやってます。
──それは近年の曲よりも昔の曲のほうが、聴くほうもひな形がわかっているから、ちょっと違う形を新鮮に見せることができる気もしますね。
高橋 逆に言うと、最近の曲はレコーディングの段階からそれをやっちゃってるんです。「この曲をこう歌うと面白いかもな」とか、「こうやってレコーディングでは録ったけど、次ライブでこう歌ってみよう」と。昔の曲は「もう、これっきゃない」と思ってやってたから、悲しい歌を悲しいまま歌うのが良いと思っていたけど、笑顔で悲しい歌を歌ったりとかね。なので昔の曲のほうが表情の変え甲斐がある気はしています。









